最近、コミュニケーション自体や理想のコミュニケーションについてよく考える。おそらく自分の中でもどんどん更新されるであろうが、現時点での考えを書き留めておきたい。
私は、望ましいコミュニケーションの不可欠要素は、➀相手への尊重・敬意、②伝える内容、③伝え方、の3つではないかと思う。(厳密に言えば、望ましいコミュニケーション~伝えるVer.~の不可欠要素である。望ましいコミュニケーション~聞く・受け取るVer.~は➀は同じで②と③は少し変わってくると思う。)
何と言っても最重要なのは、➀相手への尊重・敬意、である。自分が言葉を誰か相手に伝える際に、その相手に対して尊重すること、あるいは敬意を示すこと。それは言葉として表されることもあるし、雰囲気や表情、仕草として非言語で表れることもあるであろう。これさえあれば何とかなるし、逆になければ致命的な失敗や言葉による暴力の加害になってしまうことにも繋がりうる可能性もある。人間が生きるのに酸素が必要なように、人が人と関係を持つ上で必要不可欠な要素、絶対的に不可欠な要素であろう。
この相手への尊重・敬意を土台として、②伝える内容と、③伝え方の2本の柱が立っているのをイメージしてほしい。②伝える内容は、おそらくコミュニケーションという言葉から最も連想されやすい事柄ではないだろうか。言葉を伝えたい相手に何を言いたいのかという中身である。③伝え方は、その内容をどのように伝えるかである。言葉選び、文の中さ、言葉の間、トーン、声の大きさ、声色、話すスピードなどかなり幅がある。
ここで私が強調したいのは、③伝え方は②内容と同程度に重要である、という重要度、重みづけである。何を伝えるかは決定的に重要で、その重要性は誰しもが認めていると私は感じるが、伝え方はそうでもない。どう伝えるかの重要度はかなり個人差がある、というのが私の見解である。意図的にではなく、無意識にそれが大事であると重要視していない場面や人に出合うことは数えきれないほどある。しかし、どんなに素晴らしい内容でも相手に届かない伝え方を用いてしまえば、結果的に相手に言いたいことを伝えることができなくなり目的を達成できなくなる。とりわけ言葉選びは重要である。同じ内容でも100通り、1000通り、いやほとんど無限と言えるほど言葉選びの選択肢の幅は広く、深い。
内容だけを重視する、または伝え方をそれほど重視していない人が少なくないのは、日本の教育も関わっているかもしれない。知識を問うテスト方式が圧倒的に多いことに慣れるとどうしても正解を知っているか、正解の解き方を知っているか、といった内容に価値を置かれがちになるのは自然な流れかもしれない。
それを裏返してみると、私の掲げる望ましいコミュニケーションの3要素を幼児期から中学校まで丁寧に、しっかりと教育し、全ての日本人が身につけることができれば何が起こるであろうか。究極的には暴力、いじめ、ハラスメント、(過失ではなく)意図を持って人を傷つける犯罪は、なくなるかもしれない。それは現実的に無理だとしても今より圧倒的に減少するのではないか。
人が人と関わりながら生きる上で、コミュニケーションを考えること、特に望ましいコミュニケーションを考え、議論し、洗練させ、その理想を一人も取り残さずに適切に教育していくこと。これは人間ができる範囲のことであり、取り組む価値があると考えると、その結果訪れる明るい未来を期待せずにはいられない。