カウンセリングでカウンセラーが「言ってはいけない言葉」があり、またクライエントがカウンセラー「言ってほしい言葉」があると思う。これは自分自身が悩んだ時に強く感じたことであり、また自分がカウンセラーとなった時は意識したいテーマの1つである。
「言ってはいけないの言葉」とは、簡単に言うと相手を傷つける言葉である。ただ、もちろんそれを言わなければよいかというと、カウンセリングとしては微妙である。相手が言ってほしい言葉を一生懸命に探し出し、間違っているかもしれないという不安も抱えながら、それでも誠実に伝えようとする。そこで相手の気持ちに響き、「言われてよかった」という気持ちになってもらうまでのサービスを行うのがカウンセリングの仕事の1つではないだろうか。
僕はある壮絶な経験をして、多くを失い、心身ともに打ちのめされていた時期がある。その時に何人かの信頼できそうな人に頼ったのだが、その結果、救われた経験とガッカリした経験と両方を味わうことになる。事情があるため、あまり詳細には書けないが、1つの例を出すと、目標をなんとか立てようとあがき、博士学位取得を目指そうか迷っていた時に、僕が言ってほしかったのは「お前ならやれるよ」という言葉だった。根拠はなくていいから誰かに言ってほしかった。博士学位取得できるかどうかは置いておいて、それは頑張る上で、歩みを進める上で大きな支えとなるからである。
言葉にせずとも「あなたならきっと大丈夫」「きっとできる」というメッセージをくれた人がいた。その人は本当に素晴らしいカウンセラーであるし、一人の人間として尊敬してやまない。一方、博士学位の条件(査読付き論文を6本書く)を教えてくれたがそれだけで終わってしまった人もいた。その時点でほとんど論文を書いていなかった自分にとって「論文6本」はあまりに高い壁であった。その条件を知れたのはよかった半面、ものすごい壁だけを提示されて終わると、不安はより大きくなった。これは、「あなたは〇〇という病気です」と言われたら不安になるが、それとセットで「でもこういう治療法がある」と乗り越え方を提示してくれればその不安もかなりなくなる(時にはほとんどなくなる)、というのに近いだろう。
自信を喪失していた時期だったから、より鮮明に覚えている。そしてクライエントがカウンセリングに来るときはこれと相似の心情であろう。辛かったし、二度と経験したくない。しかし、得難い経験でもあったことを忘れないようしたい。まあ、忘れようにも忘れられないが(苦笑)
その人がやれるかやれないかはわからない。僕の場合は博士学位の論文が書ける能力があるかは自分でもわからない。わからないことは言わないというのは言葉に責任を持つという意味では立派である。ただ、責任を持てないから言わない、言えない、を繰り返していては相手が「言ってほしい言葉」「救われる言葉」は一生言えないのではないか。根拠はなくても、「言ってほしい言葉」を届ける覚悟が時にあってもいいのではないか。
おそらくこのテーマは続けて考えていくことになると思う。とりあえずのメモとしてここまで記す。